大村ひであきブログ

大村ひであき活動レポート(2010年7月29日号)

2010/7/29 - AM11:07

【明治基地と海軍航空隊を語る】

◆明治航空基地の概要◆
○太平洋戦争末期の1944~45年、愛知県碧海郡明治村(現安城市南部)の東端、根崎、和泉にまたがって約200haの巨大な海軍飛行場が建設されました。これが海軍の「明治航空基地」です。
開戦当初、ハワイ・マレー沖海戦の大戦果で華々しく緒戦を飾った海軍航空部隊でしたが、翌1942年には、サンゴ海海戦とミッドウェー海戦で主力空母4隻を含む5隻の空母を失う大敗。この事態を受けて航空兵力の回復のため航空母艦に乗るパイロットを養成するための飛行場として整備。1943年4月から土木機械もなく人海戦術で近隣の若者すべてを動員する突貫工事で整備が進められ、私の父及び親戚も旧明治村在住でその整備に駆り出されたと聞いています。その後、1944年初頭には飛行場らしい形態を整え、9月に210海軍航空隊が明治基地で開隊されました。
空母用のために東西南北に1400m2本。1200m4本の計6本の滑走路を有する巨大な飛行場で終戦時4000人を超える陣営で帝国海軍第2位の規模。

◆元大蔵省事務次官長岡實先生ご来訪~6月19日(土)◆
☆長岡實先生のご略歴

大正13年5月 東京生まれ
昭和22年 東大法卒、大蔵省入省、官房長、主計局長を経て
昭和54年 大蔵省事務次官
昭和57年 日本専売公社総裁
昭和60年 日本たばこ産業社長
昭和63年 東京証券取引所理事長
同級生に 豊田章一郎、三重野康、三島由紀夫氏 など

○その明治基地に長岡先生は学徒出陣で赴任。海軍主計少尉で終戦を迎えられました。大村は、その長岡先生と今年の春、オイスカの中野総裁の叙勲の祝賀会でお会いし、話が盛り上がり、今回、大村が長岡先生をご案内して基地の跡地を実に65年振りに視察した後、「明治航空基地と戦後の日本経済」と題する講演会を安城市和泉町で開催させていただきました。
基地のこと、海軍のこと、そして日本経済。話は多岐にわたり大変意義深い講演会でした。また同級生の豊田章一郎、三重野康、三島由紀夫各氏の思い出話もしていただきました。食事は当時海軍指定の食堂だった碧南のうお鉄、だい忠。関係者にも喜んでいただきました。

○長岡先生が日経新聞に執筆された「私の履歴書」(2004年4月)から基地のことを抜粋すると、
「勝どき橋が開くカンカンという音で目が覚めた築地の生活に別れを告げ、4月1日にそれぞれの配属先に赴任した。私は「第210海軍航空隊」勤務。愛知県の明治村(今の安城市南部)の、のどかな田園地帯にできたばかりの大きな航空基地だった。仕事は役所でいえば文書課長兼秘書課長のような副官付き (庶務主任)である。雲雀の声を聞きながら明治基地に到着すると、当直士官は格好の良い美男の大尉だった。隊についた最先任の整備長の部屋に連れて行かれた。これまた格好の良い少佐が悠然と仏像の木彫りをされていたのには驚いた。」
「6月1日、少尉に任官した。沖縄方面への特別攻撃隊がわが隊から出撃するようになっていた。私は帽子を目いっぱい振って見送った。帰還する飛行機は皆無だった。特攻隊。出陣前夜は酒保からお酒の特配をした。副官部の私の部屋がある隊舎の隣の隊舎で、最後の宴が開かれている。初めは勇ましい軍歌、続いて酒席でよく歌うような流行歌が聞こえてくる。そして最後に、どの隊員も「雨々降れ降れ母さんが・・・」などと童謡を歌って灯が消えるのだった。米軍艦載機の空襲を頻繁に受けるようになり、機銃掃射で狙われたりもした。そして、8月15日の玉音放送となる。日差しのとてもきつい日で、蝉がしきりに鳴いていた。」

○帝国海軍の航空兵力養成のために建設された明治基地。しかし最終的には沖縄特攻へ。明治基地から鹿児島の鹿屋に。そこで燃料を補給して沖縄へ。誰も帰還せず。悲しい歴史です。
今は、跡形も無い明治航空基地。戦争の悲惨さを忘れないためにも、平和な日本を引き継いでいくためにも語り継いでいかなければならないと思います。
これから8月を迎えます。6日広島、9日長崎の原爆慰霊式典。15日の終戦及び全国戦没者追悼式。8月は旧盆と相まって日本にとっては鎮魂の月です。2度とあの過ちを繰り返さないためにも現代を生きる我々が歴史を語り継ぎ、平和な日本をつくっていくために汗をかいていかなければならないと思います。