大村ひであき活動レポート(2009年3月6日号)
2009/3/6 - AM10:33【硫黄島を慰霊巡拝】
○2月27日(金)10時半より千鳥ヶ淵戦没者墓苑にて硫黄島戦没者遺骨引渡式を挙行。26柱の帰還遺骨を収集団より受け取り、黙祷・献花。
○3月3日(火)朝8時羽田空港より政府チャーター機にて、ご遺族、政府、報道関係者100名余の硫黄島慰霊巡拝訪問団の団長として硫黄島を訪れました。
○約2時間のフライト後、硫黄島自衛隊基地飛行場へ到着。
現地を管理している海上・航空両自衛隊司令に遺骨収集への協力の御礼と挨拶。ご遺族の皆様とともに早い昼食をとった後、11時半より「硫黄島戦没者の碑」前にて追悼式を挙行。
○大村から「先の大戦で苛烈を極めた激戦地である硫黄島。この地で亡くなられた戦没者の方々の御心情とご遺族の方々の今なお変わることのない悲しみに深く思いを致し、御霊のとこしえに安らかならんことを、そして戦没者ご遺族の今後のご平安を切に祈念いたします。政府としては、遺骨収集・慰霊巡拝などをご遺族の要望に沿って引き続き実施してまいります。」と追悼の辞。参加者全員で献花。
○その後、島内を一周し、巡拝。兵団司令部壕。銀明水。
西大佐戦死の碑。摺鉢山。医務科壕。大阪山壕などを巡拝した後、今年度遺骨収集を行った現場を視察。
20年度は島北西側の海岸地域。ジャングルのように生い茂った木々や砂に埋もれた壕やトーチカを捜しての遺骨の収集作業。
何ヶ所か壕やトーチカにも入りましたが、土や砂に埋もれていたからか状態もよく、ついこの間まで使っていたような感がありました。
改めて、当時の激戦に想いを致し、戦没者の方々のご冥福と平和の尊さを思いました。
○午後3時前に基地ターミナル着。取材の後、帰路へ。
飛行機の中で最後の挨拶。「本日の慰霊巡拝で英霊の御霊もさぞおよろこびではないかと思います。改めてご冥福をお祈りします。さて、現在の自衛隊滑走路の移設改修計画が進んでいます。その前に、今の北側のかつての米軍滑走路の下にある壕の調査を21年度行います。その後、今の滑走路の下の調査も行います。これからも計画的に遺骨収集を行ってまいります。今回の訪問を踏まえて改めて、私達は、先の大戦での悲惨な経験を決して忘れない。この記憶を次の世代に引き継いでいかなければならない。という思いを強くいたしました。今後とも私どもに対するご支援ご指導をお願い申し上げますとともに皆様のご健勝ご多幸をお祈り申し上げます。」
今後とも国家事業として、戦没者の方々の慰霊・追悼をご遺族のご要望に沿って着実に行ってまいりたいと存じます。
【硫黄島概況】
○東京の南方1250km。台湾北部と同緯度。
海洋性亜熱帯気候。面積22.5km²。
現在は、海上・航空自衛隊が管理。約350人。
保守点検建設作業に従事する建設会社の方、約110人。
○戦闘概況
昭和20年2月16日~18日 | 米軍空軍による艦砲射撃 |
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2月19日 | 米軍の上陸(南海岸から) |
3月26日 | 栗林兵団長戦死後、組織的戦闘力喪失 |
○戦備
全島要塞化。地下10~30mに総延長18km に及ぶ地下壕を構築して持久戦を準備。
戦死者 | 戦傷者 | |
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日本軍 | 21,900人 | 1,000人 |
※生還者約1,000名 | ||
米軍 | 6,821人 | 22,000人 |
※現在はワシントンのアーリントン墓地にて改葬 |
○遺骨収集 昭和27年72回実施。送還遺骨数8,664柱
○慰霊巡拝 昭和54年から23回実施。
☆☆☆☆☆メディア出演☆☆☆☆☆
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3月6日(金)20:00~20:54
中京(日本)テレビに出演
今回は 板東英二 マニフェスト「小中学校の授業に金もうけという科目を設けます」
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